2nd International Symposium on Ceramic

Willi Gellerは結婚を機に、1973年、当時から歯科産業も世界最高の水準の技術を持っていたスイスに 歯科技工所を開業します。Vita Zahnfabrikは、オーストリアからスイスにやってきた若い歯科技工士に注目し、コンタクトを取り、GellerはVITA社のアドバイザーを務めます。Vita Zahnfabrikはこれを機に広告キャンペーンを開始していきます。

1978 年 VITA はGeller が製作した補綴物のポスターを製作し、発表します。そこには今までのポスターとは違い製作者のイニシャルが添えらました。そのポスターにあるイニシャルは、 Gellerは意図的に大きく考えず、 人々に興味を持たせるために WG を右下隅に配置しました。イニシャルのもう 1 つの目的は、歯科技工士と歯科医に次のメッセージを送ること で、歯科技工士の誇りを喚起すること でした。


 この時期からMr. Gellerの講演、ハンズオンコースは多くなっていきます。それと共に技工士界でもドイツのウィーランドセミナールのような大きなイベントが開かれるようになりました。ウィーランドセミナールは2年に一度開催され、開催初期の4回目ぐらいまでは、Mr. Asami Tanakaの独演会でした。彼の技術は「ワンベークテクニック」を売りに出しており、臼歯部築盛後、コンデンスをしっかりと行い、補綴物を床に投げつけても壊れないということで有名でした。その後のウィーランドセミナールはMr. Asami Tanakaだけではなく、 歯科界の最高の芸術的な歯科技工士達が招待され、Gellerもその中の一人でした。Gellerは、それらの講演会の中で、カメラを覗いて何かの被写体が見え、それがだんだん近付いて、それが女性になり、最後には唇の写真となる。こういった芸術的な発表が、インパクトがあって記憶に残るレクチャーだったと語っています。 

 

こう言った歯科界の流れの中で、講演中で、補綴物と一緒に赤い唇の写真を見せたのはMr. Gellerが初めてでした。彼が初めて赤い唇を見せた時には、聴衆は魅了されました。なぜかというと、それまで大きな赤い唇をレクチャーで見せた人はいませんでした。当時は、このような刺激的なレクチャーをおこなったのは彼だけだったのです。歯と口唇と共に写真を提供する理由としては、患者の顔貌、口元の調和を見せる意味と、セクシーさも醸し出し、少し退屈になる聴衆の目を覚まさせる効果もあったからでした。

  

1984年、2nd International Symposium on Ceramic がロンドンで開催されることとなり、Willi Gellerと、Mr. 山本眞は、田中朝美氏の推薦により、Dr. Jhon W  McLeanからロンドンのBarbican Centreでの学会へ招待されることとなります。当時田中朝見氏はワンベークテクニックと築盛後、補綴物を床に投げつけても壊れないということで、もうすでに有名な技工士でした。

 

Dr. McLeanは何度もアジアを訪れ、その帰りにチューリッヒに寄ってくれGellerのラボを訪レました。その時に彼は、山本眞氏の作品の写真を見せてくれ、Gellerはそれに感銘を受け、 「Mr. 山本の仕事と同じようなものを作ってみたいと思ったものです。」と語っています。 当時、Mr.Yamamotoは「松風」を、Gellerは「VITA」を使っていました。 Mr. 山本はGellerのことを先輩のように尊敬をしています。才能のある歯科技工士ほどGellerのことを敬うという現象は面白い現象ですが、それはどこの世界でも生じる現象です。ここは、努力したことのある人間だけが、その人の努力を知る、または、才能ある人間だけが、その人の才能が視えるということなのかもしれません。

 

後に、この講演会によって技工士という存在が歯科界にとって重要であると認められるきっかけとなる変曲点となります。

 

1984年 2nd International Symposium on Ceramic、

London June 9th - 11th. 

主催:Quintessence 

会場:Barbican Centre

日時:June 10th. 1984 

午前の部:Willi Geller講演

午後の部:山本 眞 講演

Dr. Jhon W  McLean
Dr. Jhon W McLean
DT Asami Tanaka
DT Asami Tanaka

2nd International Symposium on Ceramicでは歯科医師には大きな会場が与えられ、Geller と山本眞氏には、250名の小さな会場で講演、デモンストレーションを行う段取りとなっていました。しかし、申込者数がどんどん増え、隣の250名の会場を新たに設置されましたが、それでも足りず最終的には250名 x 4会場の合計1000名を収容する講演会となりました。1000人の聴衆の枠が用意されたのですが、それでも立ち見ができ、会場に入れない人もいた程の伝説的な講演会となりました。これは主催者側が予想もしない出来事でした。

 

Gellerは当時を振り返りながら以下のことを語っています。

「当時、入場料は現金で支払われていましたので、主催のMr. Hasse(クインテッセンス出版の前社長)は、スーツケースを現金でいっぱいにして家へ帰ったのでした。現金でスーツケースがいっぱいになるなんて、信じられませんよね? でも、実際にそれが起こったのです。 結局その成功が、私たちへの尊敬につながったのです。技工士に講演をさせると儲かる。それから、次々にセラミックシンポジウムが世界中で開催されるようになったのでした。最近では開催されすぎのような気がしますが、当時はとにかく興味深い現象でした。彼らは興奮し、良い時を過ごしました。 

 

この講演会の後すぐに、東では山本眞、西ではWilli Gellerが世界から尊敬を集め、彼らは世界の歯科技工界を牽引して行くことになり、その勢いは留まる事を知りません。それは、彼ら2人が、常に歯科界の為に研鑽してく姿勢によるものでもありました。

 


"2nd International Symposium on Ceramics London, United Kingdom June 9th - 11th, 1984" report article
"2nd International Symposium on Ceramics London, United Kingdom June 9th - 11th, 1984" report article
2nd
International Symposium
on Ceramic 
London, United Kingdom 

June 9th - 11th, 1984